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会社は生き返る
カリスマドクターによる中小企業再生の記録

定価(税込)  1,620円

著者
サイズ 四六判
ページ数 200頁
ISBNコード 978-4-526-07888-0
コード C3034
発行月 2018年10月
ジャンル 経営

内容

中小企業再生のスペシャリストである著者が、中小企業の再生に必要な事項や再生支援の流れなどを解説。再生を遂げた5社の再生当時を回顧しながら、現在の姿も紹介。企業再生への手引きを、事例を交えて、わかりやすく簡単に解説する。

藤原敬三  著者プロフィール

(ふじわら けいぞう)
東京都中小企業再生支援協議会 顧問
中小企業再生支援全国本部 顧問
1972年大阪府立北野高校卒業、76年神戸大学経済学部卒業、第一勧業銀行入行、支店長、審査部企業再生専任審査役を歴任。2003年3月みずほ銀行を退職し、東京都中小企業再生支援協議会統括責任者、顧問、07年4月全国本部統括責任者、17年4月より現職。
内閣府、経済産業省、中小企業庁等各種研究会委員を歴任。個人版私的整理ガイドライン運営協議会委員、経営者保証に関するガイドライン研究会委員、事業再生実務家協会常務理事(現職)。
主な著書・寄稿等
「実践的中小企業再生論」(金融財政事情研究会)、「経営者保証ガイドラインの実務と課題」(商事法務) 共著、「私的整理ガイドラインの実務」(金融財政事情研究会)共著、商事法務「NBL」、金融財政事情研究会「事業再生と債権管理」「金融法務事情」他。

目次

発行に寄せて(東京都中小企業再生支援協議会 井上裕之前会長)
はじめに 中小企業再生のスペシャリストとして

第一章 会社は生き返る
外科手術した企業の10年後の生存率は100%
・産業再生機構と中小企業再生支援協議会の違いは?
・「再生計画策定」の支援は4ステップで進められる
・再生できる企業と、できない企業
・助けるだけでなく中小企業を強くする再生支援
・中小企業の本質は家業
・中小企業経営の「総合病院」として

第二章 再生ケーススタディ◆1
「決して諦めない」からチャンスがある
地獄に垂らされた一本の蜘蛛の糸
・「のれん」を守りたいオーナー一族の決意
・再生の鍵となるのは「営業利益」
・一時停止通知と個別支援チームの結成
・改めて知った商工会議所の力
・罵声に負ける経営者では再生を乗り越えられない
・一筋縄ではいかない金融機関との交渉
・再生中に起きた大事件
・仕入れ価格の引き下げで採算性を向上
・新たな資金ニーズにどう対応するか
・スキーム完了後も続く「再生」
再生支援企業再訪記
職人の育成や新業態への挑戦が再生後の成長につながっています

第三章 再生ケーススタディ◆2
ひたむきな心が引き寄せた「奇跡」
巡り巡ったふしぎな事業承継
・製造の中国シフトを成功させた新社長
・再検討となった再生イメージ
・オーナーに告げた「のれん」の売却
・難航した第二会社のスポンサー探し
・再生スキーム中に起きた不思議な事件
・「運転資金の調達」という難題
・再生ファンドが評価した事業の強み
・オーナー一家の復帰が成功の後押しに
再生支援企業再訪記
エネルギッシュな社長がけん引し、スーツビジネスに革命を起こしました

第四章 再生ケーススタディ◆3
まわりを信じさせる力
応援せずにはいられない技術屋親子
・資金繰りのプロによる延命が借金を増やした
・決算数字が示す再生の難しさ
・応援してあげたい魅力ある会社
・あいまいな再生イメージしか描けない厳しさ
・コンサルタントが見つけた一筋の光
・社長に決断を迫った工場の売却
・スロー再生にもメリットは多い
・いつか「工場」を買い戻す?
再生支援企業再訪記
親子で役割を分担できればオーナー企業はもっと強くなります

第五章 再生ケーススタディ◆4
「王道を進む」決断力
誠実な人柄が仕入れ先と銀行を動かす
・社長への人物評価が支援決定のポイントに
・計画のブレーキとなる二つの不確定要素
・事業計画は「松竹梅」の3種類を用意
・金融機関との話し合いで難航が予想される理由
・DESを活用した革新的な二次破たん防止策
・予想外だったサブバンクの抵抗
・残した不動産が発揮した効力
再生支援企業再訪記
経営改革に熱心であることは再生可能企業の判定基準です

第六章 再生ケーススタディ◆5
1社を守ることが、地域の発展となる
観光地特有のバランスという支柱
・窮境原因はバブル時に計画した新館建設
・地域のシンボルは絶対に守りたい
・「観光地だから客は来る」という甘え
・再生に伴う「人事」を明確に
・ガバナンスを強化する株主構成と金融機関取引の構成
・事業計画から再生計画へ
・再生後も経営努力を続けるための工夫が必要
・観光地では「経営努力+地域活性」が成功の鍵
再生支援企業再訪記
団体客や外国人観光客の増加で多くのお客様が訪れています

おわりに

はじめに

発行に寄せて

 2003年3月18日、日本経済が長引く景気低迷とデフレにあえいでいる中、東京商工会議所内に「東京都中小企業再生支援協議会」は誕生いたしました。以来15年間、経営基盤が脆弱で資金繰りなどの不安を抱えた多くの中小企業経営者の悩みに耳を傾け、累計相談件数は約3700件、そのうち約700件で再生計画策定支援を完了しております。

 藤原敬三氏は、東京都中小企業再生支援協議会の実行部隊である支援業務部門の初代統括責任者を務め、手探りの中で数々の企業再生を果たして来られました。さらに、2007年には「中小企業再生支援全国本部」を立ち上げ、全国の再生支援協議会の活動支援に尽力されております。

 私は、東京商工会議所の副会頭として、東京都中小企業再生支援協議会の設立当初から副会長を務め、2009年からの2年間は会長として、その活動を見守ってまいりました。

 本書は、藤原氏が支援した5社の案件を紹介しておりますが、それぞれが困難を乗り越えながら、再生を果たして事業を継続しており、大変嬉しいかぎりです。

 企業の再生は一社一社の状況が異なることから、再生支援協議会の専門家はさまざまに知恵を絞りながら、支援しております。もちろん、再生支援協議会で相談を受けたものの、計画策定支援まで至らなかった企業も数多くあります。金融機関をはじめとする周囲の理解を得るためにも、経営者は真摯に事業改善に向き合っていかねばなりません。

 本書を通じて、事業再生の現場の様子が少しでも皆様に伝わればと思っております。

 昨今、中小企業の事業承継問題が大きく取り上げられていますが、事業再生と事業承継は密接不可分の関係にあり、本書のいくつかのケースのように事業承継を伴って再生計画を立案するケースが多くあります。

 事業再生を契機に次代の経営者に引き継ぎ、大きく業績改善を果たす企業が出てくることは、われわれ支援機関にとって大きな励みとなります。

 中小企業は経営環境に大きく左右され、経営者の舵取りは大変難しく、当然上手くいかないことも出てまいります。経営にお困りの際には、再生支援協議会のことを思い出して、お気軽にご相談いただければ幸いでございます。

 中小企業の経営者のほか、金融機関の担当者など多くの人に本書をお読みいただき、中小企業の再生支援がますます広がり、多くの企業が元気でいられますことを期待しております。


2018年9月 東京都中小企業再生支援協議会 前会長  井上 裕之 
                       ※愛知産業株式会社代表取締役会長。
                        2002年~2010年東京商工会議所副会頭、2010年東京商工会議所特別顧問、日本商工会議所特別顧問。
                        2016年旭日中綬章を受章。



はじめに

 私はもともと大手の銀行、いわゆるメガバンクに勤めていました。しかし、銀行員に向いていたのかといえばそんなことはなく、そのせいか、在籍中の職歴はかなり異色です。

 30歳になったころ、私は突然、設立間もない第三セクター企業への出向を命じられました。そこは東京湾横断道路(東京湾アクアライン)の建設事業者として発足した会社で、このため、プロジェクトに関係する官庁や自治体、ゼネコン、機械メーカー、金融機関などから総勢50人前後のスタッフが集められてスタートしたのです。初めて顔を合わせた、職種も専門分野もまったく異なるメンバーによる混成部隊。しかも、与えられたミッションは、全長15・1キロメートルにもなる海底トンネルと橋梁を10年間で完成させ、当時の日本道路公団に売却するといったものでした。ちなみに、総予算は1兆円以上に上ります。

 その会社において、私が担当することになった仕事は経理・財務業務でした。おそらく、金融機関の出身だったことから自動的にそう決まったのでしょうが、実はこれは大きな誤解です。一般に銀行員というのは担当する企業の資料をチェックすることはあっても、自ら決算書類を作成したりはしません。つまり、私はいきなり職場が変わっただけでなく、まったく経験のない仕事を押しつけられてしまったのです。

 もちろん、ここで「できません」といえるわけはなく、私は一から勉強し、なんとか役目をこなしました。経理担当としては原価計算から決算書や税務申告書の作成、各種規定づくり、国や地方自治体との予算折衝など多様な業務に携わりましたし、その他、プロジェクトの推進に関わるさまざまな仕事もさせてもらったのです。

 そのおかげで、表面的な事業計画だけでなく技術面についても、最低限の対外説明ができる程度の知識は身につきました。「アクアラインは、なぜ全部トンネルではなく、橋と組み合わせているのか」「海の中の人工島はどのような方法で造るのか」「海底トンネルは、シールド工法によるもの以外にどのような施工方法があるのか」といった質問には、今でもちゃんと答えられますよ。会社といっても一種のプロジェクトチームであり、組織横断的な交流が盛んだったことから、技術部門の人たちに、毎日、教えてもらった成果です。

 このように、銀行にいるだけでは絶対に経験できない仕事に携わることができたのは、貴重な体験でした。そして、多彩なメンバーが力を合わせて一つの大きなプロジェクトを成功に導いていくプロセスと喜びを味わえたことで、その後も同じような仕事ができればと考えるようになったのです。

 2年数か月間の出向期間を終えて銀行に戻った私は、大型開発プロジェクトを手掛ける部署に配属になります。まだバブル時代だったこともあり仕事は忙しく、その流れのまま、今度は東京商工会議所への出向が決まりました。当時、お台場など東京湾周辺の何か所かで開発プロジェクトが進んでおり、その中の一つのプロジェクトに中心的な立場で取り組ませてもらったのです。

 ちなみに、このときが、その後長く続く東京商工会議所とのご縁の始まりで、結局、5年ほど在籍させていただきました。多くの人や企業、団体などが関わる巨大なプロジェクトに参加させてもらえたのは貴重な経験であり、いい思い出として残っています。

 こうして通算8年ほど銀行の外で仕事をしてから、ようやく銀行に戻った後、しばらくして命じられたのが、ある支店への配属でした。支店長という肩書きをもらってはいたものの、その支店は多くの不良債権を抱えていたことから閉鎖する方針が内定しており、その敗戦処理を任されたのです。もちろん、閉鎖することは極秘事項でしたので、支店の行員にはいっさい伝えずに仕事を進めなければならないため、けっこう大変でした。

 そのころになるとバブルは弾け、大手企業であっても経営破綻してしまうような厳しい経済環境です。当然、支店の取引先にも多くの苦しい企業、いわゆる不良債権先の中小企業はたくさんありましたが、「それぞれの事情に応じて再生策を考える」といった選択肢はありませんでした。負債が100億円を超えるような大口の場合ならともかく、数十億円以下であれば、そういった「問題」案件を専門に処理する組織や部署に回してしまっていたのです。とにかく、対象となる企業が多すぎて、時間を掛けて対応している余裕がなかったのです。

 そうやって不良債権の処理を効率的に進めながら支店を閉鎖していくのが私に与えられた役目だったのですが、実際に作業を始めてみると、そう簡単にはいかないことに気づきました。なぜなら、支店の行員たちは何も知らされないまま、突然、職場を失うか、あるいは勤務地が変わってしまうことになるのです。取引先の企業だって、融資を受けられなくなり、困ってしまうでしょう。

 社会は、持ちつ持たれつの関係で成り立つものなのですから、銀行側の都合だけで物事を進めるわけにはいきません。そこで私は、不良債権処理*と支店閉鎖という二つの指令に対する諾否を3か月猶予してくれるように本部にお願いし、なんとか了承されます。そして、その猶予期間を利用し、じっくりと調査し、考えた上で納得できる結論を出そうと決意したのです。

 そんな悩ましい案件の一つが、支店の取引先だった、ある中堅部品メーカーでした。1000人ほどの従業員がおり、事業そのものは、比較的、順調に推移していたのですが、オーナーによる放漫経営などが原因で借入金による負債が大きくなりすぎ、経営危機に陥っていたのです。いわゆる「破たん懸念先」で、バブル崩壊後にはよくあった話でした。

 そこで、改めて財務データを分析したところ、かなり厳しい状況である上、オーナーの問題などもあり、再建はかなり難しそうです。しかし、倒産してしまえば多くの社員が職を失います。また、地元で長く事業を続けてきた会社だけに、地域への影響も見逃せません。

 「なんとか、事業を続けられる方法はないだろうか」

 私は考え込んでしまったのです。

 そのころ(1990年代の終わり)、メガバンクにおける不良債権処理の方法として多かったのは、貸出金を外資系などの債権回収会社に安値で売却し貸出取引を解消して縁を切るか、担保不動産を競売するなどにより可能な限り回収した上で、会社に破産か民事再生の申立てをしてもらうかでした。いずれにしろ、そうすることにより不良債権残高を減少させる(オフバランスする)ことが優先されていたのです。

 しかし、私はこの案件に関して、いずれの方法も納得できないと思っていました。したがって、どんな方法を使ってもいいから、なんとか事業が続けられるようにしてあげたいと考えたのです。そんな想いから、別の道を探っていきました。

 実は、この発想こそが後の「事業再生」という概念につながっていくのですが、もちろん、この段階ではそこまで明確な意識はありません。ただ、従来のやり方に疑問を感じていただけなのです。

 悩み続けた結果、私の出した結論は、スポンサーを見つけ、その会社を買収してもらう方法でした。いわゆるM&Aで、買収する側に事業の継続を約束してもらえれば雇用は守られます。中小企業の不良債権処理ではあまり前例のない取り組みだけに不安はあったものの、他に手はないのですから先に進むしかありません。さっそく、そのメーカーと取り引きのあった大手の自動車部品会社にターゲットを絞って交渉を始めました。

 ただし、銀行員である私にとって、これは、かなりリスキーな賭けでもあります。なぜなら、本来、M&Aのような重大事項は支店長クラスがまとめられる話ではなかったからです。

 ルール上は、すべての交渉内容について銀行本部の承認を受ける必要があったのですが、そんな時間的余裕はありません。完全な見切り発車だと承知の上で、一応、報告だけはしたものの、基本的には私の独断で動き、本部には事後承諾をしてもらう腹づもりでした。

 サラリーマンとしては望ましくない仕事の仕方なのかもしれませんが、多くの取引先や従業員、さらには地域社会への影響まで考えれば自分個人のことなど小さい問題であり、迷うところはありませんでした。不良債権先企業やスポンサー企業との交渉などは、まさに命懸けの覚悟で進めましたが、幸い、M&Aの話がまとまったのです。その結果、会社の株主は変わってしまったものの事業と雇用は守られたのですから、多くの人に感謝されたのはいうまでもありません。

 このときの経験を通し、私は二つのことを学びました。

 一つは人間関係の大切さです。スポンサーとして手をあげてくれた会社の役員も金融には精通していましたから、銀行の支店長クラスにそれだけの案件をまとめる権限がないことは重々わかっていたと思います。それにも関わらず、私の話を信じ、交渉に応じてくれたのは、ビジネスとは必ずしもルールだけに縛られるものではないと考えていたからでしょう。どんな仕事も最終的には人間同士の信頼関係の上に成り立っています。だからこそ、誠心誠意、話をすることで常識を超えた成果が得られることもあるのです。

 もう一つは銀行内部の話です。不良債権化し、従来なら倒産させるしかなかった取引先を守れたことは、多くの同僚たちにとっても驚きでした。支店のメンバーは誰もがこの快挙に喜び、職場に活気が生まれたのですが、なんと、支店閉鎖の話が白紙に戻ったのです。その後、支店の行員全員が一致団結した勢いは素晴らしく、本部より業績表彰を受け、皆で楽しいパーティーを開催することができました。

 ここでわかったことは、危機に際して行動するのはトップであり、社員にそのトップの姿を見せることが重要なのです。そして前向きに業績を伸ばす場面でのトップの役割は、社員全員のやる気を引き出し、明るく楽しい職場にすることであり、仕事は社員皆がやってくれるのだということでしょう。

 その後、私は本部の審査部に異動になり、不良債権先である企業の再生を専門に扱う「企業再生専任審査役」に就任します。

 ただし、この時代は、まだ銀行が本気で中小企業再生に取り組もうとしていたわけではありません。一社一社丁寧に時間を掛けて再生させるのではなく、大量に抱えていた不良債権を効率的に処理するため、一括で外部に債権売却してしまう「バルクセール」と呼ばれる手法による不良債権処理が主流だったのです。それでも、支店の存続に関わるような大口先については、私が行ったように「手間暇かけた再生や処理」を目指すケースがいくつかあり、それを本部からバックアップしていくのが新しい仕事でした。

 それから約2年間、中小企業再生のスペシャリストとして、私は多くの案件に携わっていきます。自分にとっては、本気で取り組める仕事であり、やりがいは感じていたものの、その実態は、毎日が戦いの連続でした。

 再生支援の仕事では、お客様である企業経営者への交渉や説得を行う一方、銀行内部における調整も欠かせません。しかも、どちらもかなり強引に進めなければならない局面が多く、外と中で「無理を通す」作業の連続だったのです。特に、銀行内部の調整は筆舌に尽くし難いものがありました。何しろ、合併した直後の時期でしたから・・・・・・。

 正直、プレッシャーも大きく、私は徐々に疲れていきました。やがて、銀行の中で中小企業の再生を強力に進めるのは難しいのではないかと考えるようになり、折しも自分が任されていた大口の不良債権先の再生や処理が一段落したタイミングの2003年(平成15年)、49歳で退職を決めました。

 この段階では次の仕事の目処はまったくありませんでした。幸い、妻もそれまでの激務を知っており、「少しゆっくりしたら」と気遣ってくれましたので、しばらくはのんびりしようと思っていたのです。半年くらい休養したら、それまで培ってきた企業再生のノウハウを活かしてコンサルタントの仕事でもできればいい。そんな気持ちでした。

 そこで、15年ほど前にお世話になった東京商工会議所の門を叩いたところ、たまたま、中小企業再生支援協議会を立ち上げる話が進んでいたことから、発足メンバーとして参加しないかと誘っていただいたのです。おそらく、若かりしころに出向していた5年間、精一杯、仕事をしていた私を見ていてくれた方々の応援もあったのでしょう。ありがたいことです。

 それにしても、銀行ではやりきれなかった仕事のお誘いを受けるというあまりのタイミングのよさに驚くとともに、これも何かの縁だと思い、すぐに承諾したのはいうまでもありません。その結果、東京都中小企業再生支援協議会統括責任者という過分すぎる肩書きをいただき、再就職が決まったのです。

 それからは、今は亡くなられてしまいましたが、当時の山口信夫東京商工会議所会頭の絶大なバックアップをいただき、自分の思うまま、自由に働かせてもらいました。

 会頭から、こんな言葉をいただいていました。「藤原さんは絶対信頼できる人だと聞いています。だからすべてお任せしますので、自由にやってください。私の名前が必要であれば使ってください。そして、何か困ったことがあれば、その時には遠慮なく相談してください」と。こんな言葉をもらって、燃えない人間はいないと思います。私は、その時、絶対にこの人に迷惑を掛けてはいけない。会頭にも東京商工会議所にもいつか恩返しをすると心に誓ったことを、よく思い出します。

 最初に行う組織づくりでは、東京都は対象となる企業が桁外れに多いことから、「20~30人は必要ではないか」とアドバイスしてくださる方もいらっしゃったのですが、私はあえて少人数でスタートする道を選んでいます。理由は、まだルールも手法も確立していない「前例のない業務」を始めるのに、船頭が多すぎると迷ってしまうと考えたからでした。それなら、組織はできるだけコンパクトにし、小さく生んで、大きく育てる方がベターです。

 こうした考えを聞き入れていただき、基本的なルールができるまでの半年ほどは、少数精鋭のメンバーにより、高い意識を持ってプロジェクトを推し進めていくことができました。さらに、それからの半年間で実践を繰り返しながら修正を加え、ようやく組織も業務も軌道に乗ったのです。それに合わせて人数も少しずつ増やし、今に至っています。

 その後、私は2007年に全国47都道府県の中小企業再生支援協議会を支援する目的で立ち上げた全国本部の初代責任者(統括プロジェクトマネージャー)になり、2017年以降は顧問を務めています。この間、内閣府や経済産業省、中小企業庁などの各種委員会にも参加させていただき、また「経営者保証に関するガイドライン」研究会などにも関わらせていただくなど、中小企業再生の道筋を切り拓いてきたと多くの方々からおっしゃっていただいております。

 以上、中小企業の再生にかける私の想いをわかっていただきたいと思い、経歴から説明させていただきました。

 本書は、そんな経験に基づき、中小企業再生の実態について解説していくものです。

 具体的なケースをあげながら、どなたにも理解しやすい内容にしましたので、専門的な知識がなくても読み進めていけると思います。経営改善や再生の取り組みを検討しようとしている多くの経営者の方々や、地方創生に向けての取り組みを強化されている地域の金融機関の方々などのお役に立てれば幸いです。


2018年9月  藤原 敬三 

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