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ビザンティン建築の謎
世界遺産に潜む都市防衛機能

定価(税込)  2,592円

著者
サイズ A5判
ページ数 340頁
ISBNコード 978-4-526-07135-5
コード C3034
発行月 2013年09月
ジャンル ビジネス

内容

ビザンティン建築は西洋と東洋の文化が交差する建築の歴史上でも稀にみる貴重な遺産。本書ではその建築群を写真による美しさだけではなく、メカニズムとして解明し、そこに潜む古代建築の謎、つまり世界遺産に潜む都市防衛機能について紹介したもの。

武野純一  著者プロフィール

(たけの じゅんいち)
 1950(昭和25)年8月1日生。1974(昭和49)年明治大学工学部電気工学科卒業、同大学大学院工学研究科電気工学の修士、博士課程。1979(昭和54)年明治大学工学部助手、同専任講師、助教授を経て、1997(平成9)年同大学理工学部教授となり、現在に至る。その間、1989(昭和64)年ドイツカールスルーエ大学に訪問教授として留学、さらに1994(平成5)年同大学の客員教授として再度渡独し同大学の双腕方自律移動ロボットKAMROのプロジェクトに参加した。なお、学会活動は、ロボット学会理事RSJ、ロボット学会Advanced Robotics編集委員長、IFToMMアジア地区プレジデント等を経て、現在はBICAの設立メンバー・プログラム委員。なお、最優秀論文(SCI2003,-2004,CCCT04,IEA/AIE2005)、学会貢献賞論文ICST2008を受賞。なお新聞掲載、テレビ出演が多数ある。
 専門は、ヒューマノイド・ロボット、人工知能、人工意識、ロボットの情動と感情、ロボットの心、古代のテクノロジー。
 著書に「心をもつロボット」(日刊工業新聞社)がある。

目次

はじめに 

第1章  ガラタ塔から
1 ガラタ塔からガラタ地区の防壁を発見する
2 知れず佇むガラタ地区を守った防壁を見る
3 外国人が多数居住したガラタにラテン系キリスト教会がある
4 地下モスクはかつてガラタ城と呼ばれ防鎖が繋がれていた
5 ジェノバ人居住地にあるコムナーレを見つけた
6 つかの間の夢

第2章  帝国の大通りメセーを歩く
1 黄金門へ向かって
2 円柱や大理石が散乱する、テオドシウス帝の記念広場
3 友愛と名付けられた広場から奪われた四帝統治の像
4 ボドルム・モスクと呼ばれている皇帝埋葬チャペルと古代のロトゥンダ
5 ローマ帝国のアーチ構造と地下貯水槽
6 ボビス広場とイコノクラスムの時代
7 アルカディウス帝の記念円柱の朽ちた台座を発見
8 キリスト教修道院発祥の地
9 コンスタンチノープルの正門、黄金門
10 黄金門を守る防御タワーの朽ちた危険な内部
11 近づきがたい黄金門の正面
12 乗り合いバスでトプカピ門まで
13 聖ソフィア大聖堂に向かってコンスタンティヌス大帝の円柱を見る
14 コンスタンティヌスの皇帝広場
15 2つの栄華、オスマンのブルー・モスクとローマ帝国の戦車競技場
16 千本の柱を持つと呼ばれる地下にある巨大貯水槽
17 大宮殿の床を飾った色モザイクの豪華さとかつての大宮殿の様子
18 大宮殿には機械で動く鳥やライオンがいた
19 戦車競技場を平らにするためにアーチ状のダム構造を作りそこを土砂で埋めた
20 皇后テオドラが軍人聖人セルギウスに献堂した教会
21 今も残るマルマラ海に面したブコレオン宮殿

第3章  聖ソフィア大聖堂とその周辺
1 聖ソフィア大聖堂の威容
2 ビザンティン帝国の聖像モザイク、ガラス工芸とパイプオルガンの生産
3 ビザンティン文化の華、聖画イコンと聖堂の扉の生産
4 ビザンティン帝国でキリスト教が世界宗教となり教会が発達した
5 正帝広場アウグステオンと巨大な地下貯水槽
6 ビザンティン帝国の大宮殿と初期の大聖堂について
7 古代のギリシア植民都市ビザンティウム

第4章  大水道橋を抜けて
1 ビザンティン教会の美しさ
2 そそり立つ水道橋の威容
3 廃墟となった初期ビザンティンの教会堂と円柱、大浴場跡など
4 第4回十字軍の略奪を受けた修道院教会
5 初期ビザンティンの面影を残す八角堂
6 皇帝が第4回十字軍に対し最後の布陣をした教会
7 オスマン帝国の戦艦格納庫となった教会

第5章  帝国の霊廟教会からマルマラ海、そして大防壁へ
1 征服者のモスク
2 円筒ドームが美しい教会堂
3 巨大な野外貯水槽の発見と人知れずたたずむ小さな修道院
4 生き残ったキリスト教会とイスラムに改宗された教会
5 残るマルマラ海の防壁からテオドシウス港を臨んで
6 大理石の塔はマルマラ海の防壁とテオドシウスの大防壁の交差地にある
7 市民への賛辞を掲げるレジオス門を見る

第6章  コーラ教会の辺り
1 北面の城門アドリアノープルと堀にかかる橋の痕跡
2 市内第一に作られた屋外貯水槽アエティウスとビザンティン教会
3 イコン破壊運動後に復興した美しいモザイクを持つ教会
4 昔は修道院の食堂だった建造物
5 洗礼者ヨハネ教会とイスラム商店街の賑わい
6 一時コンスタンチノープル総主教座が間借りした教会

第7章  ブラケルナイ宮殿から金角湾岸に沿って
1 アドリアノープル門から大防壁の内側を歩く
2 エーリ門とブラケルナイ城壁の美しさ
3 金角湾防鎖の突破とブラケルナイ防壁への攻撃
4 破城槌による金角湾防壁の突破、皇帝の反撃と逃亡
5 ブラケルナイ宮殿と聖マリア教会にあった聖遺物
6 金角湾の防壁と軍人聖人に捧げられた教会
7 聖ソフィア大聖堂を参拝する皇帝が利用した城門の痕跡
8 ヴェネツィア艦隊の浮かぶ攻城塔と聖遺物の略奪
9 もう一つの巨大屋外貯水槽
10 モンゴル帝国に嫁いだ皇帝の娘の教会 
11 生き残ったコンスタンチノープル総主教座のある教会
12 ロシア・ビザンティンの始まり

第8章  ビザンティン防鎖の謎
1 ガラタ城に繋がれた防鎖はアラブの艦隊を退けた
2 巨大な鎖は金角湾の入り口を閉鎖していた
3 ガラタ城から伸びた鎖は首都のどこに繋がれていたのか?
4 その位置は私の想像を超えていた
5 謎の円柱を発見する
6 私の考えでは防鎖は全長1200mという大規模なものであった
7 幾つかの異なる証拠、意見の食い違い
8 鎖が海面に浮かんでいたという証言
9 ガラタ城の基礎部の構造がボスポラス海峡に向かっている不思議
10 1200mの鎖は木材を組んだ筏によって海面に浮かぶことができる
11 防鎖を開閉する仕組みの謎
12 貯水槽の水を利用すれば水車によって防鎖を短時間で牽引できる

はじめに

私はロボットを研究する一人の理工学部教授です。
 なぜ、ロボットの研究者がビザンティン建築に興味を持ち、一冊の本を書くに至ったのか。
 国際会議でトルコのイスタンブールを訪れる機会がありました。今から20年ほど前になります。私が中学生であったときに世界史の教科書から今のイスタンブールが中世時代にはコンスタンチノープルであったと知っていたのでした。そしてコンスタンチノープルは東ローマ帝国の首都だったのです。私は世界史が大好きだったのです。その頃、私は父の書棚にあった当時世界的な歴史の権威であったアーノルド・トインビーが書いた「試練に立つ文明」や彼の歴史書を多数読んでいました。
 そして、訪問するチャンスがあったら、その町にある一つの建物を是非見てみたいと思っていたのです。
 その建物とは紀元6世紀にビザンティン皇帝ユスティニアヌスによって建てられた聖ソフィア大聖堂です。これはキリスト教の大聖堂として作られたのです。そして15世紀にオスマン帝国によってこの町が占領されてから、この聖堂は直ちにイスラム教に改宗されました。現在はイスラム教とキリスト教の両方の歴史的遺産として博物館となっています。外観はイスラム教のモスクであったために礼拝を呼びかけるミナレットという尖った鉛筆のような細い塔4本が周りを取り囲んでいますが、中心部にある建造物は半円球状のドームが積み重なっている山のような大きさのキリスト教の聖堂でした。今は観光客がいつも入り口に長い行列をつくっていますが、20年前は比較的見学しやすい状況でした。
 堂内に一歩入ってみると、そこにある空間は初めて見た私にとって非常に目を見張らせるものでした。柱が一本もない巨大な空間がそこにあったのです。縦横が30mと60mを超え、高さが50mはあろうかと思います。それはまるで一つの巨大なサラダボールを逆さに伏せたような形状です。その時代のヨーロッパにはそのような建物が全くありませんでした。ローマ帝国はコロセウムを代表とする巨大建築物を多数建造しましたが、聖ソフィア大聖堂に類する柱のない巨大な内部空間を有する建造物は一つとしてありませんでした。その後、フィレンツェやローマに巨大な聖堂が出現しましたが、共に聖ソフィア大聖堂の完成からおよそ1000年の年月が流れているのです。
 ビザンティン皇帝ユスティニアヌスは歴史に例のないキリスト教の聖堂を作ろうと考えたのでした。それは建築技術をもちろん基盤として、さらに数学と物理学を駆使した設計です。おそらく小さなモデルを作ってみたことは想定できます。しかし、いったいどのように建造したのでしょうか? 私はその時緊張して息が詰まりそうに感じました。
 その場所はキリスト教という宗教による皇帝と市民の祈りの場、もちろんそれは政治の場でもありました。しかし、私はその時一人の工学者として皇帝をはじめ、その建造物を実際の世界に初めて生みだした人々に対し深い尊敬の気持ちが浮かびました。
 このとき、私はコンスタンチノープルという町を徹底的に知りたいと思ったのです。
 後にビザンティン帝国と呼ばれる国家は古代ローマの継承者であって、東ローマ帝国とも呼ばれます。皇帝コンスタンティヌス帝がローマ帝国の首都を330年に、黒海の近くビザンティウムと呼ばれるギリシャ植民地であった田舎の町に遷都させてから、オスマン・トルコによって1453年に滅ぼされるまで、ビザンティン帝国は1000年を越える歴史を誇ります。
 この歴史の中でコンスタンチノープルはいつも世界の中心であると自負していました。
 ビザンティン帝国は今までのローマ帝国とどこが異なるのかという観点を考えてみましょう。ビザンティン帝国はローマ帝国で迫害されていたキリスト教徒を認め、キリスト教を世界的宗教として発達できるよう強力な基盤を構築しました、また教会や修道院を発展させることに寄与したことが第一に挙げられます。また、ローマ帝国は初めから国家としてのインフラを整備することに熱心でありましたが、ビザンティン帝国ではそれがさらに中世の町としての機能が強化されました。それが第二点です。
 キリスト教はビザンティン帝国の皇帝が招集した各地の司教を集めた話し合いによって重要な取り決めが決定されました。各地方によって異なっていたキリストの誕生日や日曜日を祝日にするといった事項や、教義などでした。その中でも、神とその子イエスが不可分であるといった、後に三位一体という重要な教義がその場にいた多数派の意見として決定されました。そして、それに従わない者は異端者とされ追放の処分を受けました。
 私はこのなにげなく決まった「神とその子が不可分である」とする決定が、後のヨーロッパ、さらにアメリカの大発展の精神的な基盤となったとみています。なぜなら、その子とはヒトの子でもあったからです。ヒトの子でもあり、神の子でもあるという不思議な関係はアジア出身の理系の人間には理解が難しいですが、西欧人はこの謎を解明するべく挑戦し思考を深めたことによって後の大発展をもたらしたと思うのです。哲学者ルルスの術として知られる例があります。アジアにおいてもほぼ同時期に、「在るのでもなく、無いのでもない」といった仏教の「空」という思想がその後の仏教を発展させ、アジアの人々の思考を鍛えたことも指摘しておきましょう。
 インフラについては、都市を囲むように作られた防壁、水道設備の完備でした。特に、町の西方に広がる陸上では3重の大防壁とその外側にはおよそ20m幅で深さ10mの水堀がありました。それ以外では海が町を守っていたのです。
 水道設備では、ローマ帝国中で最長といわれる250kmという水道が地下を潜ったり、谷を越えたりしながら首都の貯水槽まで飲み水を供給していました。そして、町には地下や野外に6か所の巨大な貯水槽を建設し、渇水期や帝国の緊急事態に対応するようになっていました。さらに、異民族の侵入を防ぎ、この長い水道を守るために大防壁の西方60kmに、いまのブルガリアのトラキア半島を南北に横切るような全長およそ47kmのアナスタジアの防壁を建設しています。
 また、もう一つあまり知られていない都市防衛機能がありました。コンスタンチノープルは大防壁の反対側にあたるところに、金角湾と呼ばれる町に切れ込む大きな湾があり、そこにいくつもの重要な港が集中していました。ビザンティン帝国はその港が弱点であるということを認識していて、その入り口をかつてないほどの巨大な鎖によって封鎖していたのです。もちろん、古代都市の多くの港はそのような装置を備えていましたが、ここではそれが驚くほど大規模な仕組みであったといえるでしょう。鎖の一玉が60cmの長さを持ち、重量が20kgもありました。その鎖が1000m近い長さで海上に浮きながら港を封鎖していたと推定されているのです。
 この三つの都市防御機能、すなわち大防壁・水道と巨大貯水槽・大規模な防鎖がコンスタンチノープルを他のローマの都市と隔絶する大きな違いです。
 ここにローマの古代都市から中世の円熟した都市への変遷を感じることができます。
 第三に、文章化された法律によって国家が運営されていました。これはローマ時代からの継承といえますが、ビザンティンの皇帝はしばしばそれらの法律を編集し体系化しました。一般的にこれらはローマ法典と呼ばれ現代の成文化された憲法や法律の原型といわれています。ビザンティン皇帝テオドシウスは過去の勅令や勅法を調べ、日付や執政官のサインが無い勅令・勅法を無効にしました。彼らは大変合理的な人々であったようです。皇帝ユスティニアヌスによる法典も有名です。
 第四にビザンティン帝国は将来の西欧・アメリカ発展のあらゆる部分の基盤を作ったといえます。宗教・芸術・技術・科学的発展の基盤です。
 ビザンティン帝国では、教会や修道院の発達から聖歌が生み出され、それが西欧の音楽の基盤となりました。また、パイプオルガンはビザンティン帝国で生産され、西欧ではそれを手に入れることが憧れとなっていました。それが後に西欧のチェンバロやピアノの発達の基盤となりました。さらに、ビザンティン帝国では金・銀の装飾品、ガラス製品、そして絹織物等の工芸品の精緻な作りは他の国をはるかに凌駕していました。また、先に述べた大防壁、貯水槽、防鎖そして聖ソフィア大聖堂の建造を見てもビザンティン帝国の科学や技術が当時の世界の最高峰に到達していたことは明白です。さらに、ビザンティンの宮殿では、水力で動くエレベータのような装置や機械で動き囀る小鳥や唸る獅子があって、さらに列柱が立ち並ぶ大通りには不思議な力で動く像がありました。これらはこの都市を訪れる外国使節や十字軍の兵士たちを驚嘆させたといいます。ロボットの研究者である私にとってここは大変興味があるところです。さらに、ビザンティン帝国はその始まりからキリスト教に関わる聖なる遺物の収集、モザイクの聖画やイコンの生産によっても、世界中の人々から憧れの都市となっていました。
 ビザンティン帝国国内では2度にわたるイコン破壊運動が起きて、教会や修道院の聖画が破壊されましたがその後イコンは正当に認められることになります。しかし、この破壊運動の結果、キリスト教は東西の二つに分裂する結果をもたらし、これは現代でも大きな影響を残すことになりました。
 ビザンティン帝国は世界中の富を集め、多くの異民族から憧れと嫉妬心を持たれて何回となく首都が包囲されましたが、都市防衛機能が働きそれらを退けることができました。
 ところが、こともあろうにキリスト教の新進国家であったヴェネツィア帝国の艦船と海兵そして巡礼騎士団がコンスタンチノープルを襲撃し占領したのです。その時初めて、ビザンティン帝国の都市防衛機能が初めて破られました。その時、十字軍は都市の持つ財宝やキリスト教に関わる遺物のほとんどを戦利品として本国に持ち帰ったことは有名です。襲撃した指揮者はこの都市の内部事情に詳しい者であったことが、その勝利をもたらしたことは明白でしょう。
 この略奪と破壊によってビザンティン帝国は一時臨死の状態に陥りましたが、この後十字軍国家の自滅によって蘇生をとげました。
 そのときビザンティン帝国は再び短い輝きを取り戻しましたが、1453年コンスタンチノープルでは世界に類がないような巨大な青銅製の大砲を城門に多数配置したオスマン・トルコのおよそ20万の軍勢に包囲されることになったのです。
 オスマン・トルコが発射する200kgを超える石の砲弾が大防壁を次々と破壊し、その砲弾は防壁のはるか上空を飛び越えて市内に落下しました。そのときがビザンティン帝国の最後であって、もう大防壁といえども都市防衛の機能となり得ない時代、すなわち中世時代の終わりを意味していたのです。
 ビザンティン帝国はそのとき滅びましたが、その輝かしい文化は西欧ではビザンティン・キリスト教の定めたローマ主教区がローマンカトリックとしてキリスト教を継承しただけではなく、ルネッサンスと呼ばれる思想を花咲かせました。しかし、ルネッサンスは教会の宗教絵画で有名なエルグレコに代表されるように、イスラム・トルコの支配を避けてイタリアへ難民となったビザンティン帝国の人々が大きな影響を与えたともいわれます。さらに、キリスト教の改革者ルターはドイツ語の新約聖書を翻訳・印刷しましたが、その原本はギリシア語で書かれていたビザンティン帝国で写本された聖書であったといいます。またロシヤの北方に伝わったビザンティン・キリスト教は東方の正教会、ロシア正教として継承されました。コンスタンチノープルを占領したイスラム教のオスマン・トルコはキリスト教の偶像崇拝的な傾向を批判しつつ勢力を拡大しましたが、ビザンティン帝国の首都コンスタンチノープルにはリスペクトを感じていたようで、そこにあった重要な施設をそのまま利用しました。現在のイスラム寺院の巨大なモスクはこのビザンティン帝国の聖ソフィア大聖堂にその範を求めているのです。また、ビザンティンの宮殿はペルシアのデザインが多用されていて、それはオスマン・トルコの伝統的な好みにあっていました。もちろん、西欧の人々が聖ソフィア大聖堂を輝かしいキリスト教建造物の始原であると認識していたとしても、あまり注目できない理由がここにあるのでしょう。
 私は東洋の小さな島国の一人の工学者です。キリスト教徒でもなくまたイスラム教徒ですらありません。おそらく仏教の影響を多大に受けていることは自明です。
 この私が、西欧・東欧の国々、イスラム諸国の歴史を紐解けば紐解くほどに、その根源にビザンティン帝国の影響が濃厚に存在すると指摘せざるを得ないのです。
 これらの歴史を冷静に見れば、ビザンティン帝国が「ヨーロッパ精神の源泉であった」といえるでしょう。
 ヨーロッパ精神の源泉とは、キリスト教の神、その神のもとでの人の平等、ヒューマニズム、女性賛美、市民が主権を持つ思想、神と子のイデアから生まれる自然への探求とそれによる科学技術の発展などでしょうか。
 私はその象徴として聖ソフィア大聖堂を上げているのです。この聖堂は「神と子のイデア」から生まれているといえるのです。大空間に市民を一堂に集めて皇帝は彼らと共に神キリストに祈りを捧げるという皇帝の意図がこの大聖堂を建設したことは間違いないものの、その建造物がビザンティンの人々によって建築技術と、さらに物理学と数学を駆使して作られた建物であったことも間違いないことでもあるのです。かつて未開の地であったロシアの使節がこの町を訪れた時に「天上の国か地上の国かわからなかった」という感想を述べたそうですが、まさに、この感想がコンスタンチノープルというビザンティン帝国の首都が持っていた特徴であったのです。大防壁も水道と巨大貯水槽も、そして大規模な防鎖もこのイデアから生み出されていたのです。コンスタンチノープルが「聖母マリアによって守られていた」というのですから。
 しかし、私たちは現代にあって西欧やアメリカの大発展に源にビザンティン帝国があると確認しても、そしていかにそこに一つのイデアがあり、それを実現しようとして努力を傾けていた国家があったとしてもそこは既に滅び去ったのであって、その時代に戻ることは二度とできないのです。十字軍によるコンスタンチノープル占領は、一つのイデアの崩壊ではなかったかと私は推測しています。
 そこにあったイデアが既に滅びたというのではもちろんないけれども、私たちはいま新たなイデアを見出すことが求められているのではないかと思います。
 それは新たな神を見出すという試みではなく、「神なき世界」においても「私たちが生きているだけで貴重な存在である」とするリスペクトを感じるイデア、いわば「神なき世界におけるヒューマニズム」をいかに見出すのかという重大な問題に至っているということでしょう。私の専門とする「心をもつロボット」はまさにこの点を研究の中心としているのです。心をもつロボットを作ろうとすればするほど、実は人のすばらしさに気づくことになるとわかったのです。同名の拙著が既に出版されているので、それも一読していただけると嬉しいです。それは、聖ソフィア大聖堂がキリスト教の神のイデアによって建造されたとはいえ、それはまたビザンティンの人々の物理学と数学を駆使した「人によって作られた」建造物であるのですから。
 私はこの本を出版する機会を得て、工学系の一科学者としてイスタンブールに残るビザンティンの建造物をほぼすべて調査し、この本に紹介しています。
 私は、このビザンティン帝国が残した建造物を調査することによって、「神ある国」の光と影を感じて、新たなイデアとしての「新しいヒューマニズム」を創造する道筋を見出すことができるかもしれないと考えたのです。
 本に記載した地図には現存しているビザンティンの建造物に灰色の図形を、既に存在しない建造物は白色の図形を用いました。またオスマン時代の建造物には薄い灰色の図形を利用してわかりやすく明示しました。再建されたけれどビザンティン時代とは異なる建物には同じく白色の図形を使いました。調査にはデジタル距離測定器を持ち込み、現場でその状況を計測しました。
 第一章ではコンスタンチノープルの北面、金角湾の対岸にあるガラタ地区に残るビザンティンの建造物を調査します。
 第二章ではコンスタンチノープルを東西方向に走るメインの大通りメセーを調査します。現在グランドバザールがあるベアズット広場から、市電を利用しながら数々の皇帝フォーラムの痕跡やビザンティン教会の跡、そして町の正門玄関である黄金門を訪ねます。続いて、ベアズット広場から東の方角にメセーを調査します。まずはコンスタンティヌス皇帝の記念フォーラム、細長い多数の列柱に支えられている地下貯水槽、戦車競技場、今わずかに残る大宮殿の痕跡を訪ねます。
 第三章では聖ソフィア大聖堂とその周辺に残るビザンティン建造物の数々を紹介します。そして、古代にギリシアの植民都市であった地区に残る遺跡の様子を伝えます。
 第四章ではコンスタンチノープルの中央地区、水道橋とその周辺、金角湾に至る今はモスクとなっている数々のビザンティン教会、第4回十字軍の激しい略奪を受けた教会を紹介します。
 第五章ではコンスタンチノープル市内で最も眺めの良い丘の上にある征服者のモスク、ファーティフ・モスク、ここはかつてビザンティン初期時代の皇帝達の霊廟、聖使徒教会があったところです。ここから市内西南部、マルマラ海に面したテオドシウス港、西部のテオドシウスの大防壁までの数々のビザンティン建造物を調査します。ここは、広範囲な大調査となります。
 第六章では大防壁の中で最も海抜の高い所にある城門アドリアノープルから始まり、早い時期に作られた野外型の巨大貯水槽の痕跡を見ます。そして、その周囲にあるビザンティン教会や修道院の跡、特にビザンティンの後期に作られた美しい聖画モザイクが現存する教会、またオスマンに征服された直後にキリスト教の主教座が移転させられた教会を調査します。
 第七章ではコンスタンチノープル北西部にあるブラケルナイ地区を訪ねます。ここはビザンティン帝国後期の宮殿があったところ、十字軍の攻城戦、帝国軍の反撃の歴史のある所です。またオスマン・トルコ兵士の最初の侵入地、またビザンティン皇帝が最後の出撃をした地でもあります。そして、金角湾の沿岸に残る教会の数々、また市内で2番目に作られた野外の巨大貯水槽を調査します。
 そして最後の章は、金角湾を封鎖していた大規模な防鎖について調査します。この防鎖については博物館に巨大な鎖が残っているのみで、その防衛機能の詳細については不明のままになっています。筆者はこの防鎖に大変な興味を持ち、できうる限りの資料を使いながら、どうしても資料がない場合は合理的な思考法を利用しながら、その解明を試みました。それによると、防鎖はガラタ城から金角湾の海上を渡り、現在はトプカピ宮殿のボスポラス海峡側にある崖下にある特殊な防御タワーまでおよそ鎖は1200mの長さがあったことを推定。海水の浮力を考慮して鎖は木製のフロートによって海上に浮かぶことが可能であること。そして、特殊な防御タワーに水車のメカニズムがあれば、海抜40mの所にある貯水槽から水を導いて、比較的短時間で鎖を防御タワーから出し入れすることが可能であると推定しました。その仕組みによって、金角湾を封鎖していた鎖の一部が開閉できたことを理論と実験を用いて裏付けています。
 さあ、読者のみなさん古代から中世にかけて1000年の高い文化と歴史を持ち、西欧・アメリカのその後の発展に精神的な起源となったビザンティン帝国の首都コンスタンチノープルへの知的冒険の旅に出かけましょう。

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