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脳科学の真贋
―神経神話を斬る科学の眼―

定価(税込)  2,160円

著者
サイズ A5判
ページ数 256頁
ISBNコード 978-4-526-06735-8
コード C3034
発行月 2011年08月
ジャンル ビジネス

内容

「脳科学」というと内容が信頼できると錯覚されやすい。「右脳人間、左脳人間」や「男脳、女脳」などの「神経神話」の中には、まったく根拠がないか、もしくは特別な場合にだけ当てはまる事例を拡大解釈しているケースも少なくない。本書では、こうした風潮に警鐘を鳴らし、脳機能のイメージング装置であるMRIなどの開発に深く関わってきた著者が、脳科学とは何か、真の脳科学とはどうあるべきか、について語る。

小泉英明  著者プロフィール

(こいずみ ひであき)
1971年東京大学教養学部基礎科学科卒、日立製作所入社。基礎研究所所長や研究開発本部技師長などを経て、2004年からフェロー。理学博士。専門は分析科学、脳科学、環境科学。生体や環境中に含まれる微量金属を高精度で分析できる「偏光ゼーマン原子吸光法」の原理を創出したほか、国産初の超電導MRI(磁気共鳴描画)装置、MRA(磁気共鳴血管描画)法、fMRI(機能的磁気共鳴描画)装置、近赤外光トポグラフィ法など、脳科学の急速な発展を可能にする技術開発や製品化に多くの業績を持つ。2001年度から文部科学省・科学技術振興事業団(現・科学技術振興機構)「脳科学と教育」研究総括、2004年度から研究開発領域「脳科学と社会」領域統括・研究統括。おもな著書に『脳の科学史』(角川マーケティング)、『脳科学と学習・教育』(編著、明石書店)、『脳は出会いで育つ』(青灯社)ほか多数。

〈インタビュー・編集コーディネーター〉
藤木 信穂(ふじき しほ)
2003年日本女子大学理学部数物科学科卒、出版社を経て、日刊工業新聞社入社。2006年より科学技術部でエレクトロニクス・情報通信分野を担当。現在、文部科学記者会所属。総合研究大学院大学博士課程在籍。

目次

はじめに
プロローグ -科学者に求められる資質とは-

第一章 脳科学の現在
疑似科学の考え方
脳科学研究をめぐる現状
脳ブームが与えた影響

第二章 脳ブームの発生メカニズム
広範な脳科学の世界
脳科学の研究体制
疑似脳科学と新興宗教(カルト)の相同性
正しい情報の発信

第三章 脳はどこまでわかってきたか
動物の脳と人間の脳
言語の役割
「未来」の概念
「憎しみ」の研究

第四章 人間の脳活動を観る
「測る」ということ
ブラックボックス化の危険
脳機能計測法の歴史
神経活動とは

第五章 神経神話とは何か
神経神話の歴史
科学と神話
早期教育に利用される神経神話

第六章 左脳と右脳
人間が持つ二つの脳
左脳と右脳の役割

第七章 男女の脳の違い
男女の違いと脳の関わり
遺伝と環境によるさまざまな影響
歌舞伎にみる人間の本質

第八章 脳科学と社会
脳科学の果たすべき役割
海外における脳科学研究

第九章 人間の本質を探る
進化を軸に考える
「未来」の概念がもたらすもの
脳科学の持つ可能性

エピローグ -東日本大震災と科学技術-
おわりに

はじめに

 本物の科学とは、いったい何でしょうか?

 科学ではないもの、つまり疑似科学として典型的なのは、たとえば、練金術だとされてきました。当時の古図から見ると、錬金術はさまざまな物質を煮たり焼いたり煎じたりして、何か黒魔術的なおどろおどろしいものを感じさせるものがあります。このような試みは、神を冒涜するものだとされており、悪魔のイメージがつきまとっていた可能性があります。たしかに、錬金術の長い歴史の始まりでは、金のような貴金属をほかの卑金属(普通の金属元素)から練成したり、生命の素を練成して、試験管のなかにホムンクルス(人工生命体)を生みだしたりするということが真剣に考えられていたとされています。錬金術とは、神の力に人間が近づきたいという果てしない欲望から生まれてきた結果の一つでしょう。たとえば、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(一七四九~一八三二)は戯曲『ファウスト』のなかで、ホムンクルスにしゃべらせています。

 こうした錬金術は疑似科学の典型だとされていますが、では科学的にすべてが否定され得るものでしょうか?よく考えると、そこにもそれなりの論理はあったと思います。普通の金属から金をはじめとする貴金属が作り上げられるなら、それは素晴らしいことに違いありません。今から考えればそれは必ずしも不可能ではありませんが、しかし、当時はそこに極めて大きな困難があったのです。

 多くの物質は分子から成り立っていますが、分子とは原子(元素)が結合したものにほかなりません。錬金術で扱われたさまざまな化学反応は、やがて近代の化学の芽生えともなりましたが、貴金属を作り出すという錬金術本来の目的は、原子を結合させて分子を作る反応ではなくて、中性子や陽子などの素粒子の結合によって形成される原子核の反応だったのです。これは、現在では科学として認められているものもあり、例えば原子炉中のウラニウムから放射性のヨウ素やセシウムが生まれるのは、錬金術が目指していた原子核の反応なのです。

 また錬金術に登場するホムンクルスも、昨今の分子生物学の進歩からは、一概に疑似科学とは言えないものになりつつあります。錬金術師たちは、人間を物質から練成することを考えました。一方、現代の科学者は、物質であるDNAを自由に発現させて、生物を作り上げるiPS細胞(人工多能性幹細胞)の研究開発を進めています。クローン生物などは、物質を練成することによって、試験管のなかに人工生命体を作ることを夢見た錬金術を彷彿とさせます。

 このように、一見、怪しいと思われるような科学を疑似科学と簡単に決め付けること自体が、そもそも科学的ではないことが歴史を見ると分かります。新たな仮説にも、その当初は疑似科学のレッテルを張られることがあります。ニコラウス・コペルニクス(一四七三~一五四三)が、『天体の回転について』で地動説を発表したのは、晩年の一五四三年です。当時は天動説が信じられていたため、コペルニクスは宗教界からの迫害を恐れていました。その後、ガリレオ・ガリレイ(一五六四~一六四二)が望遠鏡を発明して、コペルニクスの地動説を確認しましたが、賢明なガリレオは批判をしなやかにかわしたり、自説をカモフラージュさせたりしながら世を渡りました。天動説が科学的に誤りだと認識されるまでには相当の年月を要したのです。

 しかしながら、現代にははっきりとした疑似科学が存在します。深い思考に裏づけられたものではなく、実証的な根拠も薄弱な内容にもかかわらず、それが世の中の一般の人々に吹聴されています。このような疑似科学に、私たちは注意して毒されないようにする必要があるでしょう。私たちの正しい判断を阻害する疑似科学とは、ある人の独りよがりの思い込みであったり、お題目への狂信的な信奉者であったりするケースが多いのです。本書で取り上げる「神経神話」の多くもその類のものです。

 OECD(経済協力開発機構)は、世界から神経科学・心理学・教育学などの第一人者を集めて、二〇〇〇年から二〇〇一年にかけて三回の国際会議を開きました。その結果、「学習科学と脳研究」というテーマの国際共同研究が正式にスタートすることになり、英国王立研究所を会場にして、この研究プログラム発足の国際会議を開いたのです。私も、国際諮問委員として、この研究プログラムに深く関わることになりました。これらの計四回の国際会議で見えてきた内容から企画書が纏められ、これが成書としてOECDから出版されたのです(OECD編著『脳を育む:学習と教育の科学』二〇〇二、邦訳:小泉英明監修、小山麻紀訳、明石書店、二〇〇五)。このなかに、初めて明確に、「神経神話」という言葉が使われ、約一〇ページがその解説に充てられました。脳科学を厳密科学として学習・教育に役立てるために、疑似科学が入り込む隙を与えないようにするためでした。
 この研究プログラムが種々の成果を上げて終了しようとした段階で、今度は、纏めの報告書が作られ、これもOECDから出版されました。(OECD編著『脳からみた学習:新しい学習科学の誕生』二〇〇七、邦訳:小泉英明監修、小山麻紀・徳永優子訳、明石書店、二〇一〇)。このプログラムの期間中に、急速に「脳科学」という言葉がポピュラーとなり、また、脳ブームが巻き起こり、目に余る「神経神話」が多くの書籍やテレビ番組で跋扈するようになったからです。今度は、何度も国際会議を繰り返して「『神経神話』の払拭」と題した約三〇ページの章が作られました。この章は世界に影響を与え、北米神経科学学会(会員数四万人強)や日本神経科学学会(会員数五〇〇〇人強)、そしてマスメディアを通じて、根拠の乏しい脳の話に対して強い警鐘を鳴らすこととなりました。さらに、本年、二〇一一年になって、北米神経科学学会でも、「神経神話バスター」という資料が発表され、擬似脳科学に対して積極的な対策が採られ始めました。広く流布されている「神経神話」の中には、明らかに事実誤認があって、斬って捨てなければならない部分が含まれています。

 科学というのは、キュリー夫妻の言葉を借りれば「自然を垣間見る営み」です。自然を垣間見る際には人間に謙虚さが必要だと思います。キュリー夫妻によってラジウムが発見されたとき、それは神秘なものでした。物質がいささかも変化する様子がないのに、それはいつまでも光を出し熱を持つ。それまでの化学の常識では考えられないことでした。キュリー夫妻は、その神秘な発光現象を深夜の真暗な実験室で眺めては二人で感動していました。アルベルト・アインシュタイン(一八七九~一九五五)のE=mc2という式に基づいて、計測にかからないほどわずかな質量が放射能のエネルギーを作りだしていたのです。この発見は、膨大なエネルギーを自然から取り出す原理の発端でもありました。これが、現在の原子爆弾や原子力発電へと繋がったのです。

 人間はかつて錬金術で神へ近づく力を手にいれることを試みました。その姿勢は現代も変わっていないでしょう。科学の歴史は、自然を垣間見ることから得た知によって、より大きなエネルギーを手に入れる過程でもありました。しかし、人間が謙虚さを忘れるととんでもない災いが降ってきます。

 本書の校正段階で、二〇一一年三月一一日の東日本大震災が起こりました。重篤な被害を蒙られた方々には心からお見舞いを申し上げたいと思います。そして、この震災は原子力発電所の「安全神話」がされる契機ともなりました。「安全神話」にも「神経神話」と類似の構造が見られます。今後のエネルギー問題を実際に解決するためには、一時的な感情論に走らず、客観的かつ合理的な思考が重要です。「安全神話」については、急遽、エピローグを加筆して挿入しました。これは脳が作り出した神話であるからです。科学というものを冷静に見つめ、「安全神話」や「神経神話」の本質を見極め、これからの私たちの未来に活かすことが必要だと感じています。

 この本の出版は日刊工業新聞社の野中潤氏が企画され、何回かのお打ち合わせの後に、藤木信穂記者が聞き手になって纏めてくださいました。さらに途中から木村文香氏が引き継いでくださいました。できるだけキーワードを落とさないように解説させていただいたつもりです。たいへんお世話になりました皆様に深く感謝しています。また、お読みになった方々からの貴重なご意見を頂戴できれば望外の喜びです。

二〇一一年四月 小泉英明 

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