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もう一つの坂の上の雲
鉄道ルート形成史

定価(税込)  2,640円

著者
サイズ A5判
ページ数 400頁
ISBNコード 978-4-526-06714-3
コード C3034
発行月 2011年07月
ジャンル ビジネス

内容

鉄道のルート選定、および形成に尽力した人たちの活躍を、史実とその中核にいた経験を元に書き下ろした本。線路を敷設していく困難と、立ちはだかる数々の問題、住民運動、そしてそれを乗り越えてまでつくる意義を、ポッポ屋(鉄道事業者)たちを代表して執筆したもの。鉄道網形成のすべての秘密がここにある。

☆★平成23年度 第37回交通図書賞受賞★☆

髙松良晴  著者プロフィール

(たかまつ よしはる)
 
 昭和14年(1939年)1月生まれ。
 昭和37年(1962年)4月日本国有鉄道入社。
 国鉄建設局・工事局、及びJR東日本、日本鉄道建設公団で、40年間にわたり在来線改良工事・新幹線建設に従事。
 この間、運輸省国有鉄道部の技官として国鉄改革法案審議に参画し、そして、JR東日本の東北地域・関連事業の責任者として、また、埼玉新都市交通(ニューシャトル)の鉄道主任技術者として、それぞれ、鉄道経営全般に関与。
 国鉄入社直後に、常磐線三河島と東北道線鶴見とで脱線による二重衝突事故が起き、鉄道現場を去る頃に、日比谷線中目黒と福知山線で、また、脱線による衝突及び激突事故が起きている。「再び、脱線実験線を作れ!」(日本学術会議「安全工学シンポジウム2008」)が持論。
 自らを省みると、「趣味はトラベル、仕事はトラブル」のぽっぽや人生だった。
 技術士(建設部門)、土木学会名誉会員

目次

はじめに

第1編 幹線鉄道

第1章 鉄道創業から東京駅開業まで
1.鉄道敷設の決断
2.新橋・横浜間の建設
(1)外債発行/(2)鉄道ルートの選定/(3)鉄道用地の取得/(4)新橋・横浜間の開業
3.東海道線(新橋・神戸間)の建設
(1)神戸・大阪・京都間/(2)京都・大津間/(3)敦賀・長浜・大垣間/(4)日本鉄道株式会社の設立/(5)中山道ルート/(6)一転、東海道ルートの採択/(7)東海道線の実施ルートの選定、そして全通/(8)横須賀線の建設
4.東京駅、そして東京環状ルートの形成
(1)上野停車場の設置/(2)赤羽・新宿・品川の迂回ルート/(3)甲武鉄道会社線の新宿から東京市内への延伸/(4)市区改正委員会/(5)新橋・中央停車場間の建設/(6)中央停車場(東京駅)/(7)「の」の字運転、そして、東京環状ルートの完成

第2章 広軌鉄道への夢が育てた新幹線網
1.弾丸列車計画
(1)改軌論争/(2)弾丸列車計画
2.東海道新幹線
(1)戦後復興10年、鉄道技術の積み上げ/(2)着工への意思決定/(3)東京ターミナル/(4)丹那トンネルあっての新丹那トンネル/(5)関が原ルート/(6)京都駅から新大阪駅/(7)世銀借款/(8)総工事費の倍増/(9)名古屋新幹線公害訴訟
3.山陽新幹線
(1)新大阪・岡山間の着工/(2)六甲トンネル/(3)阪神三市、高架橋側道の設置/(4)スラブ軌道の導入/(5)全国新幹線鉄道整備法制定の発端、岡山・博多間の線増認可/(6)逆転の三原/(7)関門海峡トンネル/(8)異常出水と渇水の福岡トンネル/(9)総工事費増/(10)コールドジョイント・噴泥
4.東北新幹線(東京・大宮間)
(1)全国新幹線鉄道整備法の制定/(2)東京・大宮ルート(A幹線)の選択/(3)東京駅新幹線ホームの推移/(4)東京駅周辺の整備(一極集中反対から都心再開発へ)/(5)上野駅設置に伴うルート変更/(6)反対運動の中での赤羽・荒川・大宮間/(7)通勤別線の建設と都市施設帯用地の確保/(8)埼玉新都市交通(ニューシャトル)の併設/(9)工事凍結を潜り抜けた東京・上野間/(10)御徒町事故
5.東北新幹線(大宮・盛岡間)
(1)仙台総合車両基地/(2)「貯雪式高架橋」方式の雪害対策/(3)鉄道貨物輸送再生を目指しての貨物設備近代化/(4)予測と実績
6.上越新幹線(大宮・新潟間)
(1)トンネル三兄弟の大清水トンネル/(2)2度水没の中山トンネル/(3)幻の渋川ルート/(4)散水消雪
7.整備新幹線凍結からミニ・スーパー、そして全線フルへ
8.北陸新幹線
(1)碓氷峠越え/(2)東京・長野間の開業/(3)北越北線高規格化ルート/(4)石油地層に近い飯山トンネル
9.九州新幹線(鹿児島ルート)
(1)沿線渇水を避けた筑紫野トンネルのルート選定/(2)連続立体交差事業で可能となった熊本駅ルート/(3)シラス台地の造成団地直下を抜いた鹿児島駅ルート/(4)国鉄新幹線とJR新幹線
10.青函連絡船、そして、青函トンネル
(1)青函連絡船/(2)青函トンネル、海峡西ルートの採択/(3)吉岡、竜飛の直轄調査坑/(4)トンネル本坑の設計/(5)海底部の施工、そして技術開発/(6)開業(列車火災対策、そして輸送実績)
11.本州四国連絡橋
(1)構想、そして、海難事故/(2)ルート選定/(3)1ルート3橋/(4)神戸・鳴門ルート、新幹線計画との整合/(5)道路・鉄道併用長大吊橋での技術的課題/(6)交通量の計画と実績
12.中央新幹線
(1)国鉄の調査報告書/(2)リニア実験線/(3)南アルプス貫通ルート/(4)望ましい東京・大阪間一発開業/(5)東日本大震災を乗り越えて



第2編 都市鉄道
第1章 街に電気が点いた、私鉄の勃興
1.馬車鉄道から路面電車へ
2.街に電気が点いた、電車第1号の京都市電
3.私設鉄道条例と軌道条例
4.日清戦争後、私鉄の勃興第一波
(1)東京市区改正委員会の市街鉄道調査報告/(2)柔軟解釈により軌道法認可の阪神電気軌道/(3)わが国2番目の電車軌道、名古屋電気鉄道/(4)関東で1番目の電車開業の京浜急行電鉄/(5)蒸気機関車牽引でスタートの東武鉄道
5.日露戦争後、私鉄の勃興第二波(関西・九州)
(1)阪急電鉄神戸線/(2)近鉄奈良線/(3)近鉄大阪線の伊勢・名古屋への延伸/(4)阿倍野橋から吉野へ、近鉄南大阪線/(5)京阪電気鉄道と新京阪電気鉄道/(6)福岡の都市鉄道、各社の統合で西鉄へ
6.大正から昭和、東京圏内私鉄の勃興 296
(1)田園都市株式会社からはじまった東急目蒲線/(2)起点を渋谷に変更した東急東横線/(3)東京横浜電鉄による玉川電鉄の買収/(4)東急田園都市線/(5)都心直通地下ルートの東急新玉川線/(6)平河町起点が新宿起点へ、利光鶴松の小田原急行線/(7)二社合体しての京王帝都電鉄/(8)成田アクセスを目指した京成電鉄/(9)川越鉄道・武蔵野鉄道からの(新)西武鉄道へ/(10)東京地下鉄戦争

第2章 東京五方面作戦と相互直通運転
1.都市交通審議会第1号答申
(1)焼け野原からの戦災復興都市計画/(2)東京圏郊外部の人口急増/(3)路面電車に代わり地下鉄整備を提言の第1号答申
2.東京五方面作戦
(1)三河島事故・鶴見事故、そして、国鉄第3次長期計画/(2)10年来の構想だった東京五方面作戦
3.東海道本線(東京・大船・小田原間)線路増設
―貨物別線建設反対住民運動との14年―
(1)東海道旅客線と横須賀線の分離/(2)貨物別線建設反対、住民運動との14年/(3)二つの公共性/(4)貨物別線の旅客線利用
4.東京地下駅で横須賀線との相互直通、総武本線複々線化
(1)東京・両国間、地下直通ルートの選択/(2)東京地下駅/(3)線路別か方向別か、快速線・緩行線の運行方式/(4)東京・両国間の設計・協議・施工/(5)立体交差化・橋梁改修・貨物駅集約の両国・津田沼間/(6)地下水位復元による地下駅浮上とトンネル漏水
5.中央線中野・三鷹間線路増設
(1)中央線沿線の人口増と輸送状況/(2)中央線都心部線増ルートの検討/(3)線路別運転となった中野・三鷹間/(4)1線1柱式高架橋
6.武蔵野線、幻と消えた武蔵野自動化大操車場
(1)大正から昭和、東京圏貨物鉄道ルートの形成/(2)東京外環状貨物線構想/(3)武蔵野操車場の建設から廃止、武蔵野線の経緯
7.貨物専用線が旅客線となった京葉線
(1)東京湾岸貨物線構想/(2)工事実施計画の認可/(3)複々線用地敷を確保しての旅客線化の要望/(4)京葉線都心ルートの選択―東京・新木場間新設か、有楽町線との相互直通か―/(5)東京臨海高速鉄道りんかい線
8.第二常磐線から常磐新線、そして、つくばエキスプレス
(1)常磐線複々線化/(2)第二常磐線から常磐新線へ/(3)常磐新線のルート選定/(4)首都圏都市鉄道株式会社の設立/(5)建設費・輸送量、収支、予測と実績
9.空港への鉄道アクセス
(1)新橋起点が浜松町起点となった東京モノレール/(2)蘇る成田新幹線ルート/(3)鉄道が飛行場を呼び込んだ千歳空港/(4)国鉄が締め切り寸前に申請した関西空港線/(5)鉄道アクセス抜群の福岡空港・宮崎空港/(6)蘇れ! 仙台空港鉄道

おわりに

はじめに

 江戸幕末、黒船とともに、蒸気機関車の模型が我が国にやってきた。ペリー提督2度目の浦賀来航の折、アメリカ大統領は江戸徳川幕府将軍へ、蒸気機関車の模型一組を贈与した。これは、江川太郎左衛門の申し出により、安政5年(1854年)5月24日、江戸城竹橋御蔵地にて将軍以下幕府首脳の前で運転された。模型とはいえ、動く蒸気機関車の姿は、我が国に産業革命の新たな風を吹き込むものであった。
 明治維新直後の明治2年(1869年)11月10日、新政府は、我が国最初の鉄道ルート、新橋・横浜間26㎞の建設を廟議決定した。
 提案した伊藤博文・井上勝と、資金調達などを考えた大隈重信、三人の働きによるものだった。
 伊藤、井上は、ペルー来航時に密航に失敗した吉田松陰の思いを胸に、いわゆる長州ファイブとして欧米に密航し、ロンドン地下鉄の開業を目のあたりにし、帰国している。鉄道で殖産興業の思いであった。
 また、佐賀藩は、ペリーと同じ頃に長崎に来航したロシア使節のプチャーチン海軍少将が見せた蒸気車模型をモデルに、安政2年(1885年)8月、自ら蒸気車模型を製作し運転している。当時18歳の大隈が、陪観を許された藩校弘道館の一員として見学している。
 「幕藩体制を廃し全国の人心を統一するには交通の不便を改めねばならない。また、封建的割拠の思想を打ち砕くには余程人心を驚かす事業が必要である。何かよい工夫がないものかと考えているときに鉄道の議論を聞き、鉄道を起こすことを企てた」と大隈は述べている。
 我が国の幹線鉄道網のうち、東海道線(新橋・神戸間)と東北線(上野・青森間)は、帝国議会開催前後の明治20年代前半にはそれぞれ全通している。ただ、東京中央停車場が完成し新橋、上野間がつながったのは、関東大震災後の大正14年(1925年)11月のことである。
 幹線鉄道の骨組みは、明治末にはほぼできあがっている。
 当時、鉄道院総裁に就いた後藤新平は、日本全土の幹線鉄道の軌道間隔を狭軌から標準軌へ広げる提案を行い、以後、改軌論争が激しく行われることとなった。結局、後藤の提案は、その後、原敬の政友会内閣の、改軌よりも路線拡張、との主張により実現を見ることはなかった。
 だが、後藤の広軌鉄道への夢は、戦時中の弾丸鉄道計画を経て、昭和39年(1964年)開業の東海道新幹線へとつながった。新幹線着工に尽力した国鉄総裁十河信二は、後藤総裁のときの鉄道院に採用された身である。東海道新幹線は博多まで延長された。そして、昭和45年(1970年)5月制定の全国新幹線鉄道整備法により、新幹線ルートは、さらに、北海道から九州までの日本列島を縦貫するようになった。

 いくら幹線鉄道ができても、停車場へのアクセスがなければ使い難く、都市も発展しない。都市が大きくなればなるほど、公共交通のネットワークが必要となる。明治初めは人力車と馬車鉄道であった。
 エジソンが、ニューヨークで白熱電灯を実用化し電灯事業を開始したのが明治14年(1881年)のこと。我が国でも、明治20年11月には、東京電灯が送電を開始している。各地に電力会社が創設され、人々は明るく輝く夜景に歓声をあげた。
 電力を使っての電気鉄道の運転が都市圏内ではじまる。
 第1号は、明治28年(1995年)開業の、琵琶湖疏水からの蹴上げ発電所の電力を使用した京都電気鉄道だ。
 明治から大正にかけて、イギリス人ハワードの田園都市構想に影響を受けた渋沢栄一・小林一三等により、電力会社と二人三脚で郊外電車のルートが形成され、大手私鉄の勃興となる。
 そして、太平洋戦争。もう戦後ではない、と言われた昭和30年代からの経済発展と都市人口の増加に対応し、都市交通審議会の答申を受け、大都市通勤ルートの複々線化や地下鉄建設がはじまった。
 騒音振動の公害反対、住民運動の高まりの中、新幹線の延伸や東京五方面作戦・都心への相互直通ルートの形成が進んだ。
 我が国の鉄道ルートの総延長は2万7400㎞に達した。

 どの鉄道のルートの形成にも、それぞれの経緯がある。だが、実現するまでには、いずれも、次の二つの関門を越えてきた。
 第一には、当初の構想を具体的な実行計画として認められる手立てがあったこと。
 どのような計画を描いても、それが意思決定の場で取り上げられない限り、計画(案)のまま、夢で終わる。鉄道のルート形成の場合も同じ。鉄道事業は、技術的成功とともに、多額の資金を要するだけに、経営的な成功が常に求められる。
 そこには、いつも、目を輝かせながら次々と鉄道の将来を語り、関係の向きに理解を得るべく、門前払いを受けながらも、それでも多くの方々を訪ね語り続けた計画立案者の姿がある。彼等は、単なる技術上の視点からだけではなく、国家政策との適合、都市計画等地域政策との整合、経営見通し、資金調達、沿線地域の意向への対応など、地道に、説得力のある具体的手立てを講じてきた。
 何ごとにも言える。世の中を変え、新しいものを創り出すのは、最初は、馬鹿だ、間違いだ、と言われながらも、怯まず、自分自身で将来のあるべき姿を描き、こつこつと絶えることなく、それを訴え続けた人たちである。
 第二には、認められた実行計画を、愚直に開業までやり抜いた現場第一線のスタッフがいたことだ。
 鉄のレールの上に車輪が転がり走るのが鉄道の基本構造。鉄道の建設・改良は、そのルート選定から始まる。
 まず、地形図に、計画の運転速度・牽引車両数に対応する最小曲線半径・最急勾配で、主要経過地を結んでみる。次に、それが、地形地質から施工可能かどうか、地域計画、都市計画、環境保全などの構想や計画と整合がとれているかどうかなど、多くの視点で検討を行う。そのうえで、いくつかの比較ルート案を作成し、関係者と下打ち合わせのうえ、最終ルート案を決定することになる。
 工事着手には、一定の条件に合わせた細長い用地を買収するか使用承諾を得なければならない。それゆえ、ルート選定は、実現可能性を踏まえ、地形図上に最適解を求める作業となる。
 一旦公表したルートは、絶対変えないのが原則。当然のことながら、何処の地元説明会でも、「他人の土地の上に相談もなく勝手にルートを描いておいて、変えられません、とは何事か」との抗議から始まる。これらの反対は、新橋・横浜間建設開始の明治の初めから新幹線・都市交通線建設の今日に至るまで変わらない。
 これらの反対に真正面に取り組んできた現場第一線の担当者の誠意と熱意、及びその折の知恵や工夫が、一歩一歩反対を理解に変え、現在の鉄道ネットワークを築き上げてきた。
 鉄道のルート形成、それは、計画立案者と現場第一線とが一体となって成し得た無名の碑である。

 改装復元工事中の東京駅周辺の光景を見て思う。
 明治創業期、新橋・横浜間開業ではなく、なぜ、東京・横浜間開業としなかったのか。その後、東京駅が造られ新橋・東京・上野がつながるのに、なぜ、新橋・横浜開業後53年もかかったのか。東海道・東北・北陸各新幹線の東京駅乗り入れ計画に対し、一貫して東京駅一極集中に反対してきた東京都政が、なぜに、今や一転、東京駅周辺にますます人の集まる超高層化を進める政策へと転換したのか。
 どの鉄道のルート形成においても、東京駅の場合と同じように、なぜ、が多く存在する。
 歴史は繰り返す。例えば、「運賃収入をプールし、鉄道ルートの建設に充当」との井上勝の主張は、戦後の有料道路の整備手法と同じ考えである。明治の中山道ルートか東海道ルートか、の幹線ルート論争は、東名高速道路ひいては最近の中央新幹線ルート論争につながる。明治時代中頃、東京市区計画と一体にして新橋~東京~上野間の高架鉄道ルートを決定した手法は、常磐新線(つくばエクスプレス)の建設手法に通じるものがある。

 明治創業期の知恵と工夫が現在に、そして、現在の知恵と工夫が次の時代へとつながっていく。
 街角の古屋が取り壊されて新しい建物が建つと、前の古屋のあった頃の光景はすっかり消え去ってしまう。そして、新しい建物の街角がずっと昔からあるように誰しも感じる。
 駅構内が賑わっている。一方、寂れた路線もある。ともに、今の光景から見えない歴史、すなわち人の息遣いがあった。
 どの鉄道についても、それぞれの生い立ちを記した、社史、工事誌、研究報告、行政記録などがある。
 我が国への鉄道伝来となる蒸気車の模型を、ペリー提督が江戸幕府に贈ってから160年近く経つ。鉄道のルート形成という視点から、明治・大正の在来線幹線網の形成や私鉄の勃興については文献を紐解きながら、昭和・平成の新幹線・都市高速鉄道の整備については、自らの見聞を思い出しながらその折の記録・資料を読み返し、我が国の鉄道伝来から現在の鉄道ネットワーク構築までを追ってみた。
 その概略の要旨が本書である。

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